【メタエンジニアの戯言】「獅子の子落とし」と「種まき」のジレンマ
2024.12.09松林弘治の連載コラムつい先日、某所でとても興味深い会話を目にしました。いわく、ある会社で、エンジニア育成に役立てるべく、特に優秀なITエンジニアに共通する生育環境、過程、教育体制などがあるのか調査したところ、なんの共通点もなかった、というものでした。
つまり、どんなに社員教育に知恵を絞り策をこらしたとしても、優秀なエンジニアを確実に育てる、そのような方法は未だ知られていないし、おそらくなさそうだ、というあたりでしょうか。
更には、IT人材獲得・育成の観点では、教育によって優秀な人材を育成しようとするよりも、(「太平記」由来とも能「石橋」由来とも言われる)「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」によって這い上がってきた人材を重用する方がいい、という話もありました。
身も蓋もない言い方をしてしまえば「優秀な人は突然変異のようなものである」「優秀な人は最初から優秀だし、平凡な人をどれだけ親身に教育したところで優秀になることはない」つまり「育成より選抜」ということになってしまいそうです。腑に落ちる点も多々ありますが、私はそんな風に納得して話を終わりにしたくはありません(笑)
もしも上記が確からしいとするならば、「育成」や「教育(共育)」はなんのために行っているんだろう、あるいは、どんな意義があるんだろう、そんなことも考えてしまいます。
関連するか否かはさておき、この流れでふと脳裏に浮かんだのが、ビジネスの世界で良く知られた経験則「2-6-2の法則」別名「働きアリの法則」です。組織の中では優秀な層が2割、平均的な層が6割、貢献度の低い層が2割、であり、さらにその優秀な2割だけを抽出して新たに組織を作っても、やはりその中で2-6-2の法則が成り立つ、というものです。
いうなれば、能力とは、単独で計測しうる絶対的な指標というよりは、あくまで集合の中で相対的に比較しうる指標である、と解釈することもできそうです。
同様に、能力とは個人単独で成り立つだけのものではなく、あくまで組織の中で規定され、個々と組織との関係性によっても変化しうるものである、という側面もありそうです。
「育成」「教育」の話に戻ります。優秀な人材を確実に育てる方法論が存在せず、突然変異的に発生するものだとすると、例えば野球の大谷さんやテニスの錦織さんクラスの、飛び抜けて優秀な能力を持った人を確実に育てる方法はなく、発掘・選抜によってのみ原石を見いだすことができることになります。
しかし、その「能力」と呼ばれるものが、組織の中で相対的に規定されるものなのだとすると、人材育成は会社という組織全体、学校教育は国という組織全体、のレベルを底上げする(平均レベルを上げる、あるいは、最低レベルを上げる)ことには大いに貢献しているとも言えます。
未来への種まきを行う、私はいつもそのような気持ちで取り組んでいますし、学習者から教えられることも多く、並走者やサポート役として取り組むことは本当に楽しいことです。そして、今回考えをめぐらせることで、「育成より選抜」ではない方法のやりがいや貢献について、改めて前向きな気持ちを持つことができました。
最後に余談ですが、突然変異といえば、20年ほど前に登大遊さんが「13歳位までに誤ってまたは故意に感電したことがある人は AC になる」という非常に面白く同時に納得させられる説を提唱されています(詳しくはリンク先をご覧ください)。
そういえば私も小学生の時分、休み時間に豆電球をつけたソケットのコードを興味本位で壁のコンセントに突っ込んで爆発させ軽く感電したことがあります。それなのに、特別に秀でたものを持っていなさそうなのは、登さんの仮説における例外事例なのかもしれませんね(笑)
というわけで、本年もお読みいただきありがとうございます。皆様もぜひ良い年末年始を迎えられますように。

松林 弘治 / リズマニング代表
大阪大学大学院基礎工学研究科博士前期過程修了、博士後期課程中退。龍谷大学理工学部助手、レッドハット、ヴァインカーブを経て2014年12月より現職。コンサルティング、カスタムシステムの開発・構築、オープンソースに関する研究開発、書籍・原稿の執筆などを行う。Vine Linuxの開発団体Project Vine 副代表(2001年〜)。写真アプリ「インスタグラム」の日本語化に貢献。鮮文大学グローバルソフトウェア学科客員教授、株式会社アーテックの社外技術顧問を歴任。デジタルハリウッド大学院講義のゲスト講師も務める。著書に「子どもを億万長者にしたければプログラミングの基礎を教えなさい」(KADOKAWA)、「プログラミングは最強のビジネススキルである」(KADOKAWA)、「シン・デジタル教育」(かんき出版)など多数。